言葉

平和がこの家にあるように。

ここを訪れる誰もが、

心強く

そのことを考えるように。

     *

この家のなかに入る者は 愛をもたらせ。

この家のなかにいる者は 認識を探求せよ。

この家から出た行く者は 平和をもって行け。

先月のバッチの読書会の時にこの詩を読みました。

この詩は、私の心がどうにもこうにもふわふわしてしまったり、動揺が収まらなかったりするときに

ビーンズのお部屋のなかで、できる限り集中して読んでいる詩です。

とても落ち着きます。

言葉というものには力があり、日本でも「言霊」という表現をしたり

『新約聖書』「ヨハネの福音書」でも

「はじめに言葉ありき。言葉は神と共にあり、言葉は神であった。

言葉は神と共にあった。

万物は言葉によって成り、言葉によらず成ったものはひとつもなかった。

言葉の内に命があり、命は人を照らす光であった。

その光は闇の中で輝き、闇が光に打ち勝つことはなかった」

といっています。

現代の言葉がどれほどの意味を有しているか…

それはその人…そう私によって決められるのだと思うのです。

どんな素晴らしい言葉がそこにあり、それが全宇宙を解明できるほどの力をそれぞれが持っていたとしても

それを受けとる側が認識しなければ 全く違う意味を持つことになるし

善にもなるし悪にもなる

人の中でどう響くか、

どれ程の光をもった輝く言葉であっても

どれ程つらい 苦しい体験を語っても

どれほどうれしい輝かしい経験を語ったとしても

受け取る側が決めることで、それは私のものではなく全く違うものになる。

自由がそこに存在するのだと思う

伝えたいと思う気持ちと理解したいと思う気持ちが重なり合って、言葉以上のものを受け取る経験をしたことがあるでしょう

何かわからないけれど、言葉にならないものが込み上げてくるとき

何かわからないけど、深い悲しみを感じてしまう時

それを言葉にするとそれは現世のものになり、純粋な体験とは別のものになってします。

そして、それを補うのは言葉以外のものになるのかもしれない。

でも、その奥にあるものは言葉で表現するしかないし、その言葉を話す人がいないと感じることはできない。

うーーーーん

すごいなぁって思う。

でも、そんな風に人と対話ができることって、魂の学びでよろこびなんだなぁって思うし

モノのなかにも存在したりする。モノがモノ以上のものになるとき…

そこには思いがあって、やっぱりそれを表現するのは言葉なんですよね。

目には見えないつながり…有機的につながっていく私たちの世界

そういうことがわかる年齢になってきたのなら、うれしいなぁ

物理的には色んなものが不自由になっていくんだけど

だからこそ、余分なものはとっとと取っ払って

せめて心はどんどん自由になれるよう

アントロポゾフィーの学びを続けるのはそういうことなんだと思う。

ありがたやありがたや。

あ、まだまだですけどね。

この世界ではまだ若輩者といえるのも、なんかありがたいです。

憧れの諸先輩方に感謝です(^^ゞ