6月になりましたね🐸🐌

6月になり、ビーンズの玄関のお出迎えが夏っぽくなりました。

 

実はこの「ガラガラドン」

 

小さな子ヤギが 旅に出たまま 戻っていません

それともまだ生まれていなかったかも…

 

そんなふうに 記憶があいまいになるほど前に誕生したこの子たち

 

毎年この時期になるたびに

 

ででーんと玄関に飾られます。

 

コスパ最強のこの子たち(●^o^●)

 

なのですが、そのたびに何か心が

「チクリ」

と、ちびヤギさんのことを思います。

 

今年は、3匹揃えられるかな…

↑ちょっと自信ない(^-^;

 

ということで6月です(^o^)/

 

相変わらずのコロナのニュース

そして人々の生活の中に感じる

少しづつを繰り返した変化で 大きな負担を感じている日常

 

“ゆでガエル理論”

をご存じの方も多いでしょう

もともとは経営やビジネスシーンで使われるたとえ話です。

 

水にカエルをいれて徐々に熱くしていくと、熱湯になってもカエルは気づかず、

そのまま死んでしまう現象を比喩として使い、「変化に気づかず致命傷を負う」

教訓として使われています。

 

これって、コロナ禍の日常になっていますよね。

 

最近頻繁に話題になっている、茨木のりこの詩

を、じーとよみいっていると

 

本当にその通りだと痛感する。

 

自分自身が『どう』感じているのか 考えているのか そして動いているのか

 

自分自身の感覚に知らないうちに膜がはっているのかもしれないなって思う。

 

自分の感受性くらい

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

 

そして

 

寄りかからず

"もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない

もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない

もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない

もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない

ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい

じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていてなに不都合のことやある

倚りかかるとすれば

それは
椅子の背もたれだけ"

 

できあいっていうのは、「マニュアル化」されてしまっていることで

何も考えなくても進んでいってしまうこと

ひとつの言葉にたくさんの意味を見出すこととは反対のことなんじゃないのかなって思う。

 

どんなに素晴らしい内容のことでもそうなんだよね。

 

何も気を張ってがむしゃらに

「ねばならない!!」

と頑張らなければいけないとか…

そんなことじゃなくって

 

なんていうのかな

 

たまーに グー――っと考える時

 

たまーに集中して 自分の内に入るとき

中心にあるものがあるって、本当にありがたくて 救われる

 

自分の中が宇宙のように広がって感じることが たまに ある。

 

説教臭くなるのは嫌なのでこの辺りにしておきます(^-^;

 

でも、大事なことってあるよね(^_-)-☆