ネガティブ・ケイパビリティ

最近知った言葉で

『ネガティブ・ケイパビリティ』

という言葉があります。

 

ネガティブ・ケイパビリティとは何か。

それは、英国の詩人ジョン・キーツが兄弟に宛てて書いた手紙に出てくる言葉である。

「事実や理由をせっかちに求めず、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいられる能力」だという。

普段、能力という言葉は、理解、解決、対処などに使われ、私たちはそれらを身につけようと努力している。

 

また、人間の脳には、物事を「理解」しようとする傾向もある。

そして、性急な証明や理由を求めがちだ。

しかし、そうではなく、

分からないことを分からないまま、宙ぶらりんの状態で受け入れ、耐え抜く。

この能力こそがネガティブ・ケイパビリティなのだ。・・・

出典はこちら↓

https://www.flierinc.com/summary/2288?utm_source=yahoo&utm_medium=cpc&utm_content=637334870779&utm_term=&utm_campaign=dsa&yclid=YSS.1001236674.EAIaIQobChMInMWqnt2QhQMV8VsPAh3TvwpiEAAYAiAAEgLrafD_BwE

 

この言葉を聞いた時、私は心底驚きました。

数年前から、自分の中心あった考え(葛藤・疑問・憧れ)に

『名前』が付いていたのだという驚きです。

 

多くの人がそうであるように

私も興味のあることに対して「知りたい」「学びたい」と思います。

シュタイナーの哲学=アントロポゾフィーに出会って

出会っていない自分が想像できないほど私の中の中心となり

学べば学ぶほど、『知らない』ことが増えていくという

パラドクスの状態となりました。

 

学びを続け、ある一定のところまで来ると、変にこなれてきて

「着地点」をもとめたり、決めてしまったりする「手段」を覚えたりすることもあって

そんな自分の態度にも疑問がありました。

 

実際、概要のみを伝える事にも意味があるでしょうし

「入り口」は低くてもいい

むしろ低い方がいいとも思うので

その辺りは時と場合によって、必要なものは変化することはもちろん知っていますが、

 

その視点とは別に、知りたいという深みにはまっていけばいくほど

今の自分が「知っている」「理解している」と思ったことが

実はつ一つの扉をみつけた・又は、開けただけのことで、

その先にはさらに別の、そして、見たこともない扉が、あることに気づくことができた…。

という感覚もあって、二つの(実際にはもっと複雑かもしれませんが)世界が

もつれているような感じでした。

 

すこし興味のあることは、スマホで調べればすぐに概要を知ることができます。

 

何かの資格でもインターネットで、”すぐ”に”短期間”でとれるし

それで、表面的にはよそおうことができます。

でも、それに対してずっとずっともやもやとしたものを抱えていました。

 

それ、本物なの?

本当に自分の”血肉”になるものなの?

 

そういう思いは、私の考えすぎなの?

そんなに難しく考えなくてもいいの?

 

誤解してほしくないのは、「分かろう」という気持ちはみんなにあることは知っているし

それに対してどんなアプローチをするかは、その人の自由なので

その姿勢に対して決して「非難している」のではなく

あくまでも私の態度としての話です。

 

事実、私だって表面的に通り過ぎるように知った「情報」は山ほどあって

それに対して真摯に向き合っている人もいるわけなので、

私が「正義」というつもりは毛の先ほどもありません。

 

ただ、

わからないものを追求し続けて、自分の人生…日常の中でその学びをどうやって生かすことができるか

そんな宙ぶらりんの自分でも、学び続けることによって時々訪れる

『点と点がつながって、腑に落ちる瞬間の幸せと感動』

を、日常の喜びとして迎えることができるなら

 

「宙ぶらりんの自分」

を受け入れていきたい。

と、考えていたのです。

 

そんな時に出会ってこの言葉

『ネガティブ・ケイパビリティ』

 

ネガティブ・ケイパビリティを身につけるのは難しい。

私たちの脳は生来、物事を「分かろう」とするからだ。

人類はその歴史の中で、「分かる」ために様々な努力をしてきた。

文字や数字、図形などの記号によって世界を記すことや、何かしら一貫した法則を

見出そうとすることもその一環である。ハウツー本が流行るのも、

「分かろう」とする姿勢の現れといえる。しかし、「分かろう」として、ごく浅い理解でとどまってしまうことも多い。

 

神経心理学者の山鳥重氏は、「分かる」には浅い理解と深い理解があるとしている。

浅い理解で止まってしまいやすいのは、小さな理解を積み重ねて全体を理解しようとする、

「重ね合わせ的理解」だ。

それに対して、深い理解とは「発見的理解」である。

これは、自分で立てた仮説に沿って物事を観察し、

仮説を検証することのくり返しによって到達できる理解だ。

不可解な事柄を無視したり、拙速な答えを出したりせず、

その宙ぶらりんな状態を観察し続けることが求められる。

つまり、深い理解とはネガティブ・ケイパビリティによってもたらされるといえる。

↑出典は上記と同じ

 

バイオグラフィーワークはまさにそのための学びだと思います。

 

深い理解を得るために特別な修行をすることはなく

むしろ日常こそが「修行」なのだなぁと実感することができます。

 

そして、バッチフラワーはそのための大きなサポートとしてありますし

手仕事は、マインドフルネス「今ここに」の実践であると思います。

 

どのこともぜーんぶつながっているのだなぁ

 

と、そこにつなげてくれたすべてのことに感謝したいと思います。

 

『霊的』という言葉を出すと

とってもスピリチャルな感じがしますが、

日常の中に当然のようにある物質ではないけれど存在を確信していること

「愛情」「感謝」はもちろん”成長を助けてくれる”「後悔」

は、スピリチャルな力として、様々なものを動かしてくれていると考えています。

私の今置かれた状況や出会った人たちは、

確実に『霊的』な助けがないと存在していないと思っています。

 

ネガティブ・ケイパビリティ…この言葉の中にたくさんの意味が含まれています。

ますます、面白い。